2015年7月6日月曜日

町田市相原について

なぜ、相原は町田市なのかYahooの知恵袋に説明(yutt97aさんの回答)が載っていました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1356750168
あの細長い部分は、もともと堺村という1つの村でした。その後、堺村は、ほかの町村と合併して町田市になっています。 堺村から町田へは川沿いの歩きやすい道でつながっていますが、八王子との間は山越えです。合併の際、峠の向こうの八王子よりは、町田と一緒になる方が自然です。 それよりは、川1本隔てただけの相模原市と一緒になる方が地形的にはもっと自然です。なぜそうならなかったのでしょうか? 奈良時代以来、日本の地域は60余の「国」に分けられ、さらに国の中は「郡」というエリアに分けられました。堺村は、武蔵国多摩郡に所在していました。 相模国と武蔵野国の境界を決めるとき、多摩丘陵の稜線ではなく、境川を境界にしました。堺村から境川を隔てて南側は相模国高座郡です。 武蔵国と相模国の境界が多摩丘陵ではなく境川だったことは、土木技術の発達した近世以降の感覚では不自然かもしれませんが、奈良時代頃の感覚では、周囲にぬかるんだ湿地が広がる川よりも、地盤の良い丘陵の方が越えやすかったのかもしれません。実際、奈良時代の道は、河川や低湿地をやたらと嫌う反面、丘陵地はあまり気にしていない、というより、好んで突っ込んでいく傾向が見られます。だとすれば、越えにくい川の方を境界に選んだのは自然なことだったのかもしれません。 明治になって、県ができたとき、武蔵国多摩郡(いわゆる三多摩)は、一度は神奈川県に編入されました。いまの町田市も八王子市も、神奈川県だったのです。しかしすぐに、多摩郡は神奈川県から切り離され、東京府に編入されます。東京府としては多摩川の水利権が欲しかったのでしょう。このとき、「多摩郡」が神奈川県から東京府に移行した、というのがポイントで、多摩丘陵の南側にある堺村を含む現町田市も、地形や地域の事情にかかわらず、奈良時代以来多摩郡であったという一点で、他の三多摩エリアと一緒に東京府に移っています。 堺村が八王子と一緒にならなかったのは、地形を見ればごく自然な事なのですが、多摩郡に属していたこと、多摩郡が一括して神奈川県から東京府に移ったことで、堺村の立ち位置がおかしなことになりました。自然地形上の境界である多摩丘陵と、人間が決めた境界である東京府と神奈川県の境界(武蔵国多摩郡と相模国高座郡の境界に由来)に挟まれてしまったのです。 そして、合併の際、峠の向こうと合併するのも不自然、東京府の村が神奈川県の隣町と合併するのも不自然、ということで、同じ東京府で地理的にも近い町田と合併するしかなかったのでしょう。 仮に武蔵国と相模国の境界が境川ではなく多摩丘陵の稜線であれば、堺村は相模国高座郡に属していたはずで、今頃は神奈川県相模原市になっていたでしょう。
現在の東京都と神奈川県の都県境は東京湾側は、多摩川。 そして、稲城市、町田市が多摩川より南側に位置し、町田市の南西側から境川が都県境になり、境川の水源城山ダム付近で、多摩川と相模川との分水嶺となる尾根が都県境となっています。 海側の境は河川、山側の境は分水嶺になるのが自然なので、稲城市南側、町田市南側、西側の都県境は、都県境が多摩川から多摩川、相模川の分水嶺に推移する過程において、境川などの要素を取り入れ決められているのですね。

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